飛翔

作品原案として書き連ねています。 書きかけで試行状態ですが、踏ん切りをつけるために、一度手を離すことを目的としています。

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葬儀

 葬儀にかかわる映画を見たのが、「送りびと」。
 さまざまな死に向き合い、死者の人格に迫り、そこに息づく愛の姿に迫る描き方は、それ自体で十分斬新であり、それが、本質を究めていく納棺師を描いていくことになっているといのが、人を感動させるのだろうか。
 確かに、誰もが、いつかは送り人になり、送られ人になるのに、現代は、それに真摯に向き合う機会がなくなっている。
 真剣に考えないで、しきたりに基づいて誤魔化しているのではないか、本当はきちんと考えなければならないことなのではないかと、自分に迫った。

 日常の中で、最近葬儀にかかわったのが、お手伝い。
 一つは、近所の手伝いという立場でのお手伝い。ごく最近は、親戚の会計の仕事。どちらの葬儀も、葬儀の中心的な担い手は、葬儀社だった。
 手伝い関係者は、近所の葬儀の時は、故人の元職場を引退した組織が中心となり、近所が補助的にお手伝いをするという形だった。親戚の葬儀の時は、遺族の職場と近所の手伝いで、実際に手伝いの部分を親戚が仕切れるようにした形だった。葬儀社が、それらを見守ることでスムーズに運営されていくという感じだった。

 「毎日新聞」(2010/9/11)の<くらしナビ>が「葬儀 少人数 実質本位」の見出しで、冠婚葬祭互助会の「現代葬儀白書」のアンケート結果を基に、最近の葬儀事情を伝えているのを見た。
 それによると、会葬者の数、費用、しきたりという側面からは、小規模化が進み、実質本位の葬儀になってきているという傾向とか。
 その中で、顕著にその傾向が表れたのが、会葬者が99人以下が、11年前の調査で2割だったのが、今回55%をしめたことという。
 葬儀手伝いも、葬儀社任せが増え、職場や近所が1割から2割に激減しているという。
 誰の為の葬儀かという点では、副見出しにあるように、「遺族より故人の付き合い重視」に変化は、職場の関係者中心が減ったことが特徴的なようだが、知らせなかったという人も13%とのことで、それが、もう一つの副見出し「職場の義理薄れ」という特徴のようだ。

 これを、どう見るかだが、葬儀は家族のものという意識が一気に強まったというのが、大きな特徴だろうか。
 その背景は、葬儀社が充実したこと・少人数の葬儀を望む人が増えたという事。
 別の側面では、地域や会社の人間関係の希薄化と高齢化に伴う年金生活者の喪主という事情もあるようだ。
その内の地域や会社の人間関係の希薄化が、私的な関係性重視につながっているようだが、この希薄化が家族関係にまで及ぶと、近年の高齢者の所在不明という現象になって現れるということとつながるのだろうか。

 今まで、マイナーなイメージだった葬儀について考えていくと、自分の生き方と強くかかわるような気がしてくる。
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テーマ:♪人生・生き方♪ - ジャンル:ライフ

  1. 2010/09/14(火) 09:38:53|
  2. 日々雑感
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庭の野菜で朝食を②

 庭で野菜を作り始めた時の事が、日々雑感2 : 「庭を食材供給畑に見立てて」として、整理されている。
 内容は、朝食に焦点を絞って、地消地産と薬膳をイメージしたことについてだ。そのためには、「丸ごと頂く」ことと「自分のつくった食材」にこだわってみるということが大切だ。 
 丸ごと頂くというのは、できるだけ捨てるものをなくせばいい。簡単にいえば、皮ごといただくということだ。こちらは、直ぐにできることだが、「朝食の食材として自分で作ったものを毎日収穫」というのは、かなりハードルが高い。
 それで、これも甘めの設定にしている。
 夕食で美味しく頂くために剝いた皮を、翌日の朝食に食べれば、これで丸ごといただくという精神が入ったことにするということだった。
 しかし、今年は家人も、この丸ごと食べた方が本物の野菜の味がするということで、夕食時にも丸ごと食べてしまうことが多くなった。それで、こちらからの供給が少なくなってしまった。
 昨年に比べ、庭から何かしらが採れる状態になってきているので、どうにか継続できている。それでも、ちょっときつそうなので、今年は、近くの無人販売されたものも地消地産に加えるというふうに、基準を甘くしている。

テーマ:シンプルライフ - ジャンル:ライフ

  1. 2010/09/10(金) 13:27:09|
  2. 日々雑感
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庭の野菜で朝食を

 エコビレッジとは、自然環境に負担をかけずに暮らすコミュニティーとのことだ。
 コミュニティーという部分は、共生を目指す他人を巻き込むことを求めているようで面倒だが、単独で初めれば簡単そうだ。
 それが、パーマカルチャーとかで、これはパーマネントとアグリカルチャーを組み合わせた造語だとか。
 要は、畑で野菜を作ったり、二酸化炭素やごみを出さないように工夫をしたりして、自然の循環に暮らしをフィットさせることとのことだ。随分理屈っぽいが、主旨は分かる。

 今、豊かな時間が手に入ったので、その時間をたっぷりとかけることで至福を感じるような生活にできないかと試している。観点は違うが、やっていることは同じで、目指しているのも同じような生活のような気がしてきている。
 簡易に始めるので、畑ではない。庭で野菜を作るということだ。
 その採れた野菜によって朝食を決める。ここで、朝食と限定しているのがみそだ。昼と夕食には主義を持ち込まない。まあ夕食は普通だが、昼は、食べたい時に食べたり、菓子パンで済ませたり、手作り菓子だったりといい加減だ。このいい加減さがあるから続くという側面がある。

 これを続けて、今年は2年目になる。
 今年まあまあうまくいったと思うのは、春にサヤエンドウ、小松菜と大根葉から初めて、夏に、インゲン、キュウリ、トマト、オクラ、ゴーヤに移るあたりだろうか。ナスやピーマンも植えたが、これはしくじりに近い気がする。
おくら

 去年が試しの段階で、今年うまく行ったのがオクラだ。
 庭が狭いので、プランターに適した野菜を探していたのだが、これにはオクラがいい。去年は庭とプランターにオクラを植えてみた。庭に植えたオクラは、プランターに作ったもの比べて固かった。それで、今年はプランター5つに植えてみた。これが、二日おき位に収穫できている。
 収穫したものは、細かく刻むだけの一品。今のところ、納豆にかけるか、豆腐にかけるしかない。それでも、目立つ程ではないが、少しは豊かな食卓になった気分にはなっている。

  1. 2010/09/09(木) 10:41:35|
  2. 日々雑感
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日々雑感24 : 「歳をとらないと納得できない話」

 心に引っかかってはいるのだが、若いころには理解できなかったが、歳をとるに従って心にじわじわとしみていく話というのがある。
 そんな話の一つが、満州の地で敗戦を迎えたある軍の部隊の会計を担当していた方のこの話だ。

 敗戦を迎える前に、戦況が把握できたので、先に家族を内地に引き揚げさせたという。自分は、仕事があるのでなかなか戻れなかったということは理解できる。
 しかし、ななかなか理解ができなかったのが、敗戦後の話だ。
 戦争が終っても残務の整理として決算の仕事をしていたから、内地に戻れなかったというのだ。
 もう消滅してしまう軍という組織である。その収入と支出の書類を整理し、決算書を作成することが、迫りくる自分の身の危険よりも大切な仕事だったというのだ。
 命の危険を顧みずに、提出先の当てのない仕事をこつこつと地道に行う。そして、その仕事は、誰に評価されることもなく、闇に葬られるだけなのだ。

 自分ならと考えた時、やらないで済まそうとしただろうと思うのだ。
 現に先に内地に引き揚げてこられたその方の家族の方は、夫がなかなか帰らなかったことでの苦労を重ねている。最大の出来事は、長男の方がそんな中で流行り病に侵されて亡くなられているようなのだ。もし、その方が早々と内地に帰っていたらと思うのだ。
 それなら、そんな話は忘れていてもよさそうなのだが、心のどこかに引っかかっていた。

 若いころにこの話を聞いた時には、そんな感じだったのだが、ある程度歳を重ねてくると、転勤や仕事の引き継ぎなどの時にそれを思い出していたのだ。

 仕事と自分という関わりでいうと、転勤後、引き継がれた仕事は自分とは一切かかわりのない世界になるはずなのだ。それなのに、年々、自分は本気で時間を掛けて総括を行い、それを書類にして次の人に引き渡すようになっていた。
 その仕事の行く末を案じるという心持が強くなったのではない。
 それは、今まで本気で取り組んできた自分の存在の証を、自分自身に確認しているのだ。
 他の人がどう見ようが、どう評価しようがそれはどうでもいいことなのだ。自分が真剣に事柄に向き合うという生き方をしてきたかを自問することなのだ。その決算や引き継ぎ事項の整理は、自分の生き方の自己証明としての価値が大切なことなのだ。

 先の例は、どんなに目立たない小さな事にも、自分は命を掛けて地道に誠心誠意向き合ってきたよと言っている自己証明の姿だったのだ。
 そのことに、気づかなかった若い頃の自分は、自分らしく生きていなかったということであり、もったいなかったと思う。それでも、そのことに気がついて、自分も小さな日々の出来事に心を込めるように努める時間が持てたということは、先の話が頭にあって、考えていたからであり感謝している。
  1. 2009/12/13(日) 11:17:09|
  2. 日々雑感
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日々雑感23 : 子育てのこと③

 子供を預けなければ、経済活動と家庭生活の調和が成り立たないという状況下で、核家族化が進んだ現状では、子育ての支援は、まずはお金の問題であり、その次は、保育園の延長保育と幼稚園の預かり保育を充実することになるのだろうか。それが、子育て支援ということらしい。
 為政者にとっては、育てる親の支援だげて十分だ。何故なら、実施について、その評価をするのは育てる親でしかないからだ。

 しかし、教育を政治の世界に矮小化せずに考えれば、子育てで支援されるべき人は、育てられる子も支援対象でなければならないはずだとおもうのだ。それは、親子の関係であり、利害が一致するはずだと思いがちだが、必ずしもそういうふうに言い切れないところがある。

 保育園の延長保育と幼稚園の預かり保育を充実は、育てる親にとっては立派な支援策だ。これを、育てられる子の立場からみよう。すると、それは親や家庭から自分が引き離されている時間を長くしようという意味になる。必ずしも有効な支援策ではないのだ。
 そうはいっても、複雑になってしまった人間関係の社会構造上、妥協しなくてはならないことも事実だ。それを子に説明しても分かってくれる事はないだろうし、物理的な時間は仕方がない。

 それでは、支援される子供のために何ができるのかということだが、それは心理的な配慮だと思う。
しかも、それができるのは親でしかない。
 それは、「できるだけ早く帰って子どもと過ごす時間」を永くしたいという思いであり、一緒にいる時間が短くても濃密な時間を過ごしたいという思いである。子供が求めることができるのは、せいぜいそういった配慮でしかない。これは、多分、今行政で流行りの民間の経営の導入である数値目標とかという概念からすれば、とるに足らないことである。
 だから、上司である行政者には期待できない。

 教育に携わる現場の方は、上司からは育てる方である親の便利さの意見を聞けと命令を下されて、それに逆らうことはできないはずだ。しかし、教育に携わりたかったという初心の志が失せていないのであれば、子供の代弁も心がけることも大切ではないかと思う。
 最も大切なのは、まとまってもいないし声に出して言うこともない子供の想いを、信念と経験を基に想像して、代弁者としての伝えることだと思う。
 子供には、代弁者を支持する力がないし、大人の世界でも評価を得られることはないのだが、それでも、真摯に子供の思いを想像し、伝えていく努力が、教育に携わる者の誇りになるべきだと思っている。

テーマ:生活の中で - ジャンル:ライフ

  1. 2009/10/05(月) 16:22:56|
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親馬シン

Author:親馬シン
 原点であるフィクション「夜の長い街にて」を整理していく中で、自分が求めていたものの輪郭が明らかになると思っていた。
 しかし、実際にはそうはならなかった。

 今は、知りたいことを追い求め、何も考えずに書きとめるだけだ。それでも充分満足している自分を感じている。

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