飛翔

作品原案として書き連ねています。 書きかけで試行状態ですが、踏ん切りをつけるために、一度手を離すことを目的としています。

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「再び芭蕉翁を追う」:福島の子規2-44

 地域を散策する立場では、子規が頼って訪れた地方の宗匠は、自慢の対象だ。しかし、旧派の大物宗匠三森幹雄氏の紹介で出会ったこれ等の方々を、子規が否定すべき存在としたことは、通説のようだ。

 これと対をなすのは、仙台の南山閣での鮎貝槐園(かいえん)との出会いのようだ。仙台に到着しで、国分町大泉旅館に宿を求めた後、「南山閣」を訪れる。
 「はてしらずの記」によると、7月31日、旧城址の麓より間道を過ぎ、広瀬川を渡り、槐園子を南山閣に訪れたということだ。

 この子規が求める交流性を確認することで、福島の子規の交流性をきちんと認識できると思う。認め難い意識が和らげられ、否定された福島の交流性の本質が明確になるような気がする。
 それまで、芭蕉翁を追う子規を追いかけてみる。

 子規は、仙台から汽車で塩釜に行く。
 とりあえず塩釜神杜に向かって詣でている。「はて知らずの記」で、次のように紹介する。
 数百級の石階幾干株の老杉で、足もとがひやひやとして、已にこの世ならぬ心地がする。神前に簡単にお参りして、和泉三郎寄進の鉄燈籠を見る。
 大半は当時の物だというが、全部錆びで覆われていて、側の大木と共に七百年の昔がありありと眼に浮かぶ。

 炎天や木の影ひえる石だゝみ

 「和泉三郎寄進の鉄燈籠」は、「奥の細道」に「社殿の前に古い燈篭があり、鉄の扉の面に、「文治三年和泉三郎寄進」と彫られている」と紹介されている事を受けている。「奥の細道」の「五百年も前の様子が目の前に浮かぶ」を「七百年の昔」で受けている。
 「奥の細道」は、和泉三郎について、次のように紹介される。
 和泉三郎は、勇気、節義、忠孝を兼ね備えた武士である。誉れ高い名前は今に至っても慕わないものはいない。誠に人はよく道理をわきまえた行いをし、節義を守るべきである。「名声もまたこれに自然についてくる」というがまさにその通りだ。

 芭蕉は、加右衛門に描いてもらった仙台・松島間の名所案内の絵地図を持ち、更に、塩釜と松島の旅宿への紹介状ももらって、旅の便宜を受けている。それをもとに優雅に旅を楽しみ、十符菅や壺碑などをあちこち立ち寄ってみた後、ここに来ている。
 それに対して、子規は一人旅、宮城野に立ち寄った後直ぐにここに来た。
 この神社のいわれは奥の細道に任せ、社頭に立って塩釜の景色を見渡した景色を描写する。
 山は低く、海は平かに、家屋は鱗のように並んで、人馬は蟻のように往来している。塩焼く煙かと見えるのは、汽車や漁舩の出入りするようすだ。歌を詠む貴人だと思ってみると、日本の名所を洋文の案内書に教へられた紳士だった。
 山水は依然たれども見る人は同じからず。星霜移り換れども古の名歌は猶存す。しばし石壇の上にあゆみて昔のみ思ひいでらるゝに

 涼しさの猶有り難き昔しかな

テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学

  1. 2010/11/22(月) 11:51:22|
  2. ○ 福島の子規(ノンフィクション)
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「再び芭蕉翁を追う」:福島の子規2-44

 子規は、29日には、つつじが岡に遊ぶ。ここからは、福島の子規とは切り離され、別の項となる。
 それでも、歌枕については「『躑躅岡』とも書き、『山榴岡』とも書いて、古歌の名所なり。」としか説明しない。そして、「仙台停車揚のうしろの方にあたる。杜鵑花は一株も見えないが、桜樹茂りあひて空をおおい日をふせぐほどで、涼風の腋下に生ずるを覚える。花咲きいづる頃想ひやられる。」と眼の前の風景を説明する。

 「宮城県の歴史散歩」によると、ここがつつじの名所であり、古歌からもそのことは伺えるが、伊達藩4代伊達綱村氏が、生母三沢初子の冥福を祈るため、京からしだれ桜などを移植して、江戸時代には桜の名所になってきているとのことだ。
 (※ 杜鵑花=植物「さつき(五月)」の誤用漢名)

 芭蕉も訪れたという榴ケ丘天満宮についても、景色については「天神廟あり釈迦堂あり」とするだけだ。そして、芭蕉50回忌の追悼碑であろうか、その句を刻んだ碑が境内に累々と並んでいる様子を説明して、その句を批評している。
 悪句捨所の感あるは雅中の俗なり。(可なる者只買明蓼太二人の句のみ)

 この地には、明治8年(1875)に編成された第2師団歩兵第4連隊が二の丸から移転駐屯していたが、その兵舎については次のように描写する。
 桜の並樹に沿って見込み、深く柵をめぐらして、いかめしい番卒が睨んでいるのは兵営で、俗中の俗だ。しかし、兵営からいえば俗中の雅になるだろうか。我はただ仙台公園のここに在るのを怪しむのみだ。

 兵隊の行列白し木下やみ
 「宮城県の歴史散歩」によると、公園の東側にある兵舎は、1874年に仙台城の石垣の一部を利用して建てられているという。木造二階建て、寄棟造り・瓦ぶきの兵舎は、県内に現存する最古の洋風建築物とのことだ。

 訪れる地は奥の細道に沿うのだが、そこで表現されるのは子規の時代の風景ということを感じる。

テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学

  1. 2010/11/13(土) 15:17:14|
  2. ○ 福島の子規(ノンフィクション)
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「再び芭蕉翁を追う」:福島の子規2-43

 子規は、実方の墓を訪ねた後、増田まで一里の道を歩き、汽車で仙台に向かうようだ。
 「はて知らずの記」に増田駅とあるのは、明治21年開業の「増田駅」のことで、現在の「名取駅」だ。ここから仙台に入った後、数日滞在して体力を取り戻そうとしたようだ。
 よく分からないが、手元の資料では、この宿を国分寺町の針久旅館だったとするものを見るが、まだその位置を確認していないが、本店が仙台で、東京支店を出したらしいことが伺える。

 行きあたる宿に落ちつく涼みかな
 郡山からここに来る間に往々に観ることとして、尺八月琴胡弓などを合奏して、戸ごとに銭を乞う者が多いとの記録を加えている。

 次の28日は、晴れて暑い日だったようだ。
 
 雨晴れてまたあらたまる熱さかな
 病の疲れのせいなのか、旅路の草臥れなのかは分からないが、朝とも昼とも夜ともいわず、ひたすらに睡魔に襲はれて、ただうとうととばかりに、枕一つがこよなき友だちだといって寝ていたようだ。

 夜になって、少し元気になったのだろうか。
 燈下に日記など認め終って窓を開けると、十六夜の月が澄み渡って、日頃のうさを晴らす折から、不意に松島の景色を思い出す。こころはやって、この月をあだにはと、足は戸の外まで踏み出すが、もはや夜深けて終列車の時刻も過ぎていた。
 ちょっと不満だが、蚊帳に入ると、月光はガラス窓を透過してわが枕辺に落ちる。今は中々に夢も得ぬ景色だ。
 月に寝ば魂松島に涼みせん
 涼しくもがらすに通る月夜かな
 もし十七夜の月も見過ごしてしたとしたら、もっと松島の風光に負けたことになる。明日は必ず扶桑第一の山水に出会おうと、一人で契り、一人でうなずいて眠りにつく。

 (※ 「松島は扶桑第一の好風にして……」〈奥の細道〉を受けて表現しているのだろうか。)

テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学

  1. 2010/11/11(木) 10:54:02|
  2. ○ 福島の子規(ノンフィクション)
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「芭蕉翁とずれはじめる」:福島の子規2-42

 子規が追う芭蕉翁は、実際の芭蕉翁よりも芭蕉翁がイメージしようとしたものを追っている。
 省略する時には大胆に思い切った省略をするが、イメージを求める時には、芭蕉本人よりも徹底して実物にふれ、徹底して実際に体感を通す。芭蕉のイメージが、軽くさえ感じられてしまうほどだ。

 例えば、信夫摺り。
       文知摺り

 芭蕉は文知摺観音を訪ねるだけだが、子規は、その信夫草とかかわる信夫山を訪ねてから、文知摺観音を訪ねる。

 例えば、実方の墓。
 芭蕉は、西行が足跡を残した実方の墓前に参ることを切望したが、夕暮れが迫り、また「此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば」との事情から、これを断念し、仙台への旅を急ぐ。
 曾良の随行日記でも、箕輪と笠島の村は並んであるというが、行き過ぎて見なかったとしている。
 それに対して、子規は、実方の墓を実際に訪ねていることは、先に整理した。そして、それだけではない。体調不良ながら、似たような事例である「葛の松原」にも立ち寄った後で、この実方の墓を訪ねているのだ。

 表面的な立ち寄り場所は同じだが、そこに至る道筋の中でイメージを構築していく厚みは、子規の方がはるかに深い。先人西行が何度も訪れるという深さなら、子規は徹底して訪れるというしつこさだ。
 そういう点からは、芭蕉は、単発で淡白な一過性のイメージだ。これが都会的な軽やかなイメージを醸し出すのだろうか。

テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学

  1. 2010/11/10(水) 17:55:34|
  2. ○ 福島の子規(ノンフィクション)
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「芭蕉翁とずれはじめる」:福島の子規2-41

 「福島の子規2-38」で、桑折駅から「増田駅(名取駅)」に降り立ったかもしれないとしたが、「はて知らずの記」に、確かに「岩沼に向かう」とあるのを見逃していた。訂正する。「福島の子規2-39」で、岩沼へ向かったが、「武隈の松」は、聞いただけで立ち寄らなかったと解釈するらしいと表記した通りのことらしい。
 地図で確認すると、「武隈の松」へ立ち寄るためには、一度戻る必要がある。しかも、「武隈の松」は、その時代時代によって、変化する事を特徴としているようだ。更に、子規は、その前に「葛の松原」に立ち寄ってイメージを固めているという事情もある。
 そんな背景があったと想像する。

 子規は、医王寺を見逃して、桑折駅から「伊達の大木戸を夢の間に過ぎて」岩沼に降り立つことで、「奥の細道」から、佐藤兄弟や義経・弁慶のイメージを消し去って「笠島」に向かっている。
 そして、新たに「葛の松原」に立ち寄り、実方の墓を訪れる。これらの一方は、芭蕉翁が無視したものであり、もう一方は行きたかったが遠くから見て通り過ぎてしまったものである。
 このことによって「奥の細道」は、新たなスポットライトが浴びているということではないかと思うのだ。それが、都でちやほやされた方が、奥州の地で最期を迎えると云う野垂れ死にするという生き様だ。

 子規は、実方を紹介する。

 中将は一條天皇の御時の歌人なり。ある時御前にて行成卿の冠を打ち落しゝより逆鱗に触れ それとはなく奥羽の歌枕見て来よと詔を蒙り 処々の名所を探りて此処にかゝり給ひし時 社頭なれば下馬あるべきよし土人の申しゝに さては何の御社にやと問ひ給ふ。


 そして、その実方の最期の落馬の様子をイメージする。

 土人しかじかの旨答へしかば そは淫祠なり馬下るべきにもあらずとて阪を上り給ひしに 如何はしたまひけん馬より落ちて奥州の辺土にあへなく身を終り給ふとそ聞えし。


 そして、現地で具体的なイメージを膨らませている。
 道横に曲って薬師堂を下ると、実方の中将が落馬した所はおおよそこの辺だろうか、……。

テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学

  1. 2010/11/09(火) 17:58:26|
  2. ○ 福島の子規(ノンフィクション)
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親馬シン

Author:親馬シン
 原点であるフィクション「夜の長い街にて」を整理していく中で、自分が求めていたものの輪郭が明らかになると思っていた。
 しかし、実際にはそうはならなかった。

 今は、知りたいことを追い求め、何も考えずに書きとめるだけだ。それでも充分満足している自分を感じている。

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